日常の知覚行動ループが世界モデルを形成するメカニズム:予測符号化と身体化された認知の視点から
はじめに
私たちの日常生活は、絶え間ない知覚と行動の相互作用によって成り立っています。何かを見たり、聞いたりする知覚は、単に外部からの情報を受動的に受け取るプロセスとして捉えられがちですが、実際には、知覚はしばしば能動的な行動と結びついたループを形成しています。例えば、何かを探すときには、視線や頭を動かすといった探索的な行動が知覚を導き、得られた情報が次の行動を決定するという循環的なプロセスが生じます。このような「知覚行動ループ」は、私たちが環境を理解し、予測し、適切に行動するための基盤となります。
本稿では、日常の小さな知覚行動ループが、私たちの脳内に構築される「世界モデル」(環境や自身の状態に関する内部的な表現)をいかに形成・更新していくのかを、認知科学や神経科学における重要な理論である予測符号化(predictive coding)および身体化された認知(embodied cognition)の視点から探求します。これらの理論を組み合わせることで、知覚行動ループが単なる感覚入力処理を超えた、能動的な認知プロセスの中核をなしていることを明らかにします。
知覚と行動のループ性:サールズの理論と予測符号化
伝統的な認知科学のモデルでは、知覚、認知、行動は段階的な処理として捉えられることがありました。しかし、哲学者アラン・サールズ(Alva Noë)らは、知覚は環境との能動的な相互作用の中で生じる「知覚行動スキル」であると主張し、知覚の本質は環境との絶え間ないループにあると指摘しています。例えば、ある物体が四角形であると知覚することは、単に網膜像を処理するだけでなく、視点を変えたり触ったりといった潜在的あるいは実際の行動によって、その形状がどのように変化するか(または変化しないか)を知覚主体が理解していることに依存する、と考えられます。
この知覚と行動の密接なループ性は、近年の予測符号化理論によって神経科学的なレベルで強力に支持されています。予測符号化理論は、脳が感覚入力を受動的に待つのではなく、常に内部的な世界モデルに基づいて感覚入力を「予測」しており、実際の感覚入力との間に生じる「予測誤差」のみを上位の脳領域に伝達し、その誤差を最小化するように内部モデルや予測を更新するという枠組みです。
この理論において、行動は予測誤差を最小化する能動的な戦略の一つとして位置づけられます。つまり、脳は世界モデルに基づいて感覚入力を予測し、予測が外れた場合に予測誤差が生じます。この予測誤差を減らすために、脳は内部モデルを更新するか、あるいは「予測が真となるように」環境や自身の状態を変化させるための行動を起こすかを選択します。知覚行動ループは、この予測誤差最小化のプロセスそのものと見なすことができます。例えば、暗闇で手探りして物体を探す行動は、手触りに関する予測誤差を減らすための能動的な探索行動であり、この探索を通じて得られる感覚入力が、物体の形状や位置に関する内部モデル(世界モデルの一部)を構築・更新していくのです。
身体化された認知と知覚行動ループ
予測符号化と並んで、知覚行動ループの理解に不可欠なのが身体化された認知の考え方です。身体化された認知論は、認知が脳内プロセスだけでなく、身体の構造、状態、運動、そしてそれらが環境とどのように相互作用するかに深く根ざしていると主張します。知覚は単なる抽象的な情報処理ではなく、身体が環境の中で「どのように行動できるか」という可能性(アフォーダンス)と結びついて理解されます。
知覚行動ループにおける身体の役割は明らかです。身体は環境から感覚情報を受け取るセンサーであると同時に、環境に働きかけ、それによって新たな感覚入力を生み出すエフェクターでもあります。例えば、物体を手に取ってその重さや質感を「知覚」する際、知覚は単に視覚や触覚の入力だけでなく、物体を持ち上げるという行動、それに伴う筋感覚やバランス感覚といった身体の状態変化と不可分に結びついています。このような身体を通じた環境との相互作用のパターンが、その物体やそれを含む環境に関する私たちの世界モデルを豊かにし、洗練させていきます。
身体化された認知の観点からは、知覚行動ループは世界モデルを身体的な経験と結びつけて構築するプロセスと言えます。私たちが環境の中を歩き回り、物体を操作し、他者と関わるという日常的な行動の積み重ねが、身体を通じて得られる多様な感覚入力と運動出力を結びつけ、世界がどのように振る舞い、自分自身がその中でどのように関われるかについての身体化された理解、すなわち身体化された世界モデルを形成していくのです。
日常における知覚行動ループと世界モデル形成の具体例
具体的な日常場面を考えると、知覚行動ループが世界モデル構築に果たす役割がより明確になります。
- 空間ナビゲーション: 初めて訪れる場所を歩く際、私たちは周囲の環境を視覚的に探索し(知覚行動)、得られた情報(目印、道の形状など)に基づいて次の進路を決定し(行動)、その結果として得られる視覚入力や身体の動き(前庭感覚、固有受容覚)から、空間の構造に関する内部モデルを構築・更新していきます。予測符号化の観点からは、脳は現在の位置から見た周囲の景観を予測し、実際の景観とのずれ(予測誤差)を基に位置の推定や地図の更新を行います。身体化された認知の観点からは、身体が実際に空間を移動し、方向転換するといった経験そのものが、空間的な理解を深めます。
- 物体操作: マグカップを掴む、ペンで文字を書くといった行為も、知覚行動ループの良い例です。マグカップの形状や表面を視覚・触覚で知覚し、それに基づいて手の形や力の入れ方を調整し(行動)、掴んだ際の感覚入力からマグカップの特性(重さ、安定性など)に関する世界モデルを更新します。予測符号化では、掴むという運動指令に対する感覚フィードバックを予測し、予測誤差に基づいて運動制御を洗練させます。身体化された認知では、物体を「掴める」「持てる」といった身体との関係性の中で、その物体の意味や性質が理解されます。
- 他者とのインタラクション: 対人関係においても、知覚行動ループは重要です。相手の表情や声のトーンを知覚し、それに基づいて自身の表情や言葉遣いを調整し(行動)、相手の反応(新たな知覚入力)を受けて自身の行動や相手に関する内部モデル(例:相手の意図、感情)を更新します。これは、社会的な予測符号化や、他者の意図を身体的にシミュレーションするという身体化された認知の観点から説明されることがあります。
これらの例からわかるように、日常の無数の知覚行動ループは、単に特定の課題を遂行するだけでなく、私たちの世界モデルを持続的に洗練させ、より正確な予測と適切な行動を可能にする基盤を構築しているのです。知覚スキルや運動スキルを学ぶことは、特定の知覚行動ループの効率を高めることと同時に、そのスキルが関わる領域の世界モデルをより詳細で正確なものに作り変えていくプロセスと言えるでしょう。
結論と今後の展望
本稿では、日常の知覚行動ループが、予測符号化および身体化された認知といった理論を通じて、私たちの脳内に構築される世界モデルの形成・更新に深く寄与していることを論じました。知覚は、単なる受動的な感覚情報の受信ではなく、環境に対する能動的な行動と結びついたダイナミックなプロセスであり、このプロセスこそが、私たちが世界を理解し、予測し、効果的に行動するための基盤となる内部モデルを構築する主要なメカニズムであると考えられます。
予測符号化理論は、知覚行動ループにおける予測と予測誤差最小化の役割を神経計算レベルで説明し、身体化された認知論は、知覚行動ループにおける身体の役割と、身体的な経験が認知に与える影響を強調します。これら二つの視点を統合することで、知覚行動ループが、身体を通じた環境との相互作用パターンを、脳内の予測的な世界モデルへと変換していくプロセスが浮かび上がります。
今後の探求としては、特定の認知障害や神経発達症において、知覚行動ループや世界モデル構築にどのような異常が生じているのかを詳細に分析することや、乳幼児の発達過程における知覚行動ループの変化が、どのように世界モデルの複雑化をもたらすのかといった研究が考えられます。また、意識体験が知覚行動ループや世界モデルとどのように関連しているのか、といった問いも、今後の重要な研究課題となるでしょう。
日常の些細な知覚行動一つ一つが、私たちの世界観、そして自己認識までも少しずつ形作っているのかもしれません。マイクロスループの探求は、このような日常の中に隠された認知の深淵を明らかにすることを目指しています。